今回のテーマは、屋根であるが、ひとくちに屋根といってもさまざまで、気候風土や歴史により様々な形態と形成される材料によっても種別される。木造建築が古代に始まったときより、屋根が一番の工夫を要し、また必要不可欠のものであった。自然材料の中から、葺き材として、植物が多くは用いられ、草として熊笹の葉や、葦などの茎、木材を割った板葺きなどが代表であった。また、石材(鉄平石、玄昌石、大谷石)を葺いたものもある。6世紀になると、大陸より瓦の技術が入り、日本の屋根の大半を占めるようになってきた。その他に、金属屋根を葺くこともあり、銅板や亜鉛板、最近では、鋼板に亜鉛やアルミ層を形成させた商品もある。また、新建材のセメント系の商品も、多く出回っている。
まず、その1として、茅葺をとりあげたいと思う。(写真1 秋田 クサナギ家 重文)
茅葺きというのは、日本の各地につい最近までは、数多く現存していたが、今では、ほとんど葺き替えることなく、残っていたとしても、トタンに覆われて、補修され、建て替えの際には、ほぼ消滅してしまう。山村などでは、まだ、残る可能性があっても、建築基準法の都市計画区域内では、よほど特殊ケースでない限り、可燃物であるから、屋根を葺くことはできない。また、材料を取る茅場もなく、また、それを葺く職人や、地域住民組織も姿を消している。このままでは、一部の保存運動がされている特殊な地域のみに残ることとなろう。
その地域のひとつである京都府の美山町には、まだ、美しい茅葺きの集落が住民の手で継承されて、茅場も有り、町並み自体が観光地となっている。生活しながらの姿が残っており、一度は訪れたい場所のひとつである。(写真2 秋田 土田家 重文)
さて、茅葺きを実際に葺いた経験は、一度だけではあるが、足助城の物見櫓(写真3 愛知県豊田市足助町)の復元において施工した。この建物は、400年前の中世の山城の復元建物のひとつで、発掘により、掘建て柱を建てた穴が発見され、その穴をそのまま利用して、当時を想像して、復元された。発掘では、瓦や石が発見されなかったので、草屋根ではないかと想像され、草屋根で復元した。
まずこの屋根の材料調達から、工事は始まった。このあたりには、これだけの量の茅を調達することができないため、静岡県の富士山の裾野まで、注文に行った。そこは、自衛隊の演習場内に自生している茅で、全国の文化財の建物の屋根の注文を受けており、夏までに注文をしておかないと、残りは、燃やしてしまうとのこと。茅の刈り取り方法には、2種類あり、機械刈りと手刈りがあり、手刈りの方が若干コストが高いが、長く茅が採れる。そこで、手刈りの茅(4トン車2台分)を注文した。価格は、数十万円(運賃込み)だったと思う。現場に運ばれてきた茅は、すべてが使用できるわけではなく、良い部分だけをより分けると約半分の材料しか利用できなかった。
茅葺き職人は、この地方でただ一人の下山村の職人さんに依頼した。彼は、足助屋敷の茅葺きなど、多くの建物の工事に参加している。茅をふくためには、通常かける足場の巾では、茅を置くことができないため、1間の巾の足場を組んだ。茅は、竹と縄で組まれた垂木にミシンの針の巨大な道具で、約30cmの厚みに積み上げられた茅の束を貫通させ下の方から、丁寧に藁縄でしばられていく。茅の表面を整える篭手をリズムよくたたきながら、穂先をそろえて、屋根が葺かれていく。篭手の裏には、山形の筋が何本もつけられ、うまく穂先が引っかかる工夫がなされている。最後に棟部分を積み上げ、はさみで、丁寧に芝を刈るように軒先から切りそろえられ完成する。
茅は、断熱材としての性能も備え暖かい室内を保っていたのではないだろうか。また、室内で、囲炉裏などを燃やすことで、虫の発生や、腐れを防いでいた。屋根自体の痛みは、やはり、北側の方が傷みが早く、気象条件にもよるが、約20年ほどで、葺き替える必要がある。一度に葺き替えるには、費用もかさむため、年をずらして、片面ずつ葺き替えることもされている。また、茅葺きの古い民家の屋根裏にあがると、必ず、茅が貯めてあり、補修や葺き替えのための準備がなされている。
伊勢神宮の本殿も茅葺きであるが、専用の茅場をもち、遷宮のおりに葺き替えられる。ただし、伊勢神宮の場合は、下地に銅板が張られている。
次回は、くれ板葺き(割り板)について、掲載したいと思います。